見えないたすきに込めた思い
2020/01/06 商売のヒント
お正月の恒例行事のひとつといえば駅伝でしょう。箱根駅伝を見ないと新年になった気がしないという声をよく聞きます。箱根駅伝誕生のきっかけを作ったのは「マラソンの父」と呼ばれた日本人初のオリンピック・マラソンランナーの金栗四三(かなくりしそう)氏です。
1912年、金栗氏はオリンピックのストックホルム大会に参加するも結果は惨敗。日本の陸上競技の遅れを痛感し「日本のマラソンが強くなるためには長距離やマラソン選手を養成することだ」と考え、選手を一度に養成するために思いついたのが「リレー種目」だったそうです。東京高等師範学校の野口源三郎氏、明治大学の学生ランナーの沢田英一氏とともに「将来はアメリカ大陸横断を」という壮大な計画を立て、まず選手の選抜をするために関東の多くの大学と専門学校などに参加を呼びかけて対抗駅伝を行いました。
コースは東京から箱根までの往復。1校10人がたすきをつなぎ、2日間に分けて完走を目指す。これが箱根駅伝の原型となり、翌年の1920年2月14日に記念すべき第1回東京箱根間往復大学駅伝競走が開催されたそうです。参加した大学は明治、早稲田、慶應義塾、東京高等師範(現筑波大学)の4校。第1回の復路と総合優勝は東京高等師範学校。往路を制したのは7時間30分36秒の明治大学でした。
結局、金栗氏たちのアメリカ大陸横断計画は実現しなかったそうです。しかし、マラソン普及に心血を注いだその思いは、箱根駅伝という形で今に受け継がれているのだと思います。金栗氏の情熱。母校の名誉。仲間への感謝。自分へのエール。金栗氏が手渡したたすきに込めた思いは計り知れません。「今までは商売をマラソンに例えていたけど、これからは駅伝でいきたい」と言った知人がいます。
30代で起業して、商売という長い道のりを一人、黙々と走り続けてきた彼は、70歳を目前にした今、これからは次の世代に何を残していけるかを考えて商売をしたいそうです。何をやるかより、どうやるか。思いを込めた見えないたすきを手渡すために残りの人生をかけるそうです。